2009年06月28日 22:13
愛する人を天に送って
喜久里玲子
☆ 闘病のこと
私の主人は一昨年の8月に天に召されました。9ヶ月の闘病でした。
私たちは主人の郷里沖縄で18年過ごしましたが、今度は私の両親に親孝行するために、5年間の予定で仙台に来ました。しかし、仙台に来て8ヶ月,大腸癌末期で余命数ヶ月と宣告されました。
主人は末期癌の患者様のお世話をするホスピスの医師でしたので、自分の病気と余命宣告をしっかりと受けとめていました。そして迷わず「生きるにも死ぬにもイエス・キリストの栄光のため」と言い切りました。私はそのような主人の姿に、地上での別れだけでなく信仰の上でも主人はどんどん引き上げられて私だけが取り残されていくようなさびしさと悲しみを感じました。
旧約聖書でヒゼキヤ王は神様にどれだけ忠実に歩んできたか訴え嘆願し、病を癒して寿命を延ばしてもらいました。「あなたもヒゼキヤのように祈って!あなたが祈ったら聴いてくれるかも知れないから」と主人にも詰め寄りました。私は神様に感情のありったけをぶつけました。聖書の中で病人を癒したり、生き返らせてくださる神様の奇跡をどうして見せてくださらないのですか?私の信仰が弱いからですか?こんな私だから神様は聞いてくださらないのですか?神様は私のことが嫌いなのですか?神様への怒りと自分を責めることの繰り返しでした。また、たった数ヶ月の残された期間、主人との時間をだれにも邪魔されたくないとの思いから、お見舞いもお断りしたり、来たひとを追い返したりとずいぶんと失礼な態度もとってしまいました。
このような不安定な私を病人である主人はやさしく慰めてくれ、
「自分の感情をそのまま表したらいいよ、玲子が後悔しないように看病したらいいよ」
と言ってくれました。
そして私たちは朝夕に聖書を読み一緒に祈りました。
父よ、みこころならばこの杯を私から取りのけてください、しかし、私の願いではなく
みこころのとおりにしてください(ルカ22:42)
主人は「このゲッセマネの祈りは究極の祈りだよ」と言いました。私も少しずつ主のみこころのままにと祈ることができるように変えられていきました。
私たちは最期まで自宅で過ごすことを希望しました。主人は自分の賜物を最期まで用いていただきたいと、月1度礼拝で特別賛美をさせていただき、亡くなる1ヶ月前にも弱った力を振り絞って賛美しました。8月22日、亡くなる2時間半前まで車いすに座っていましたが、その最期の2時間は痛みが強くモルヒネも効かず苦しみました。その苦しみに十字架のイェス様の姿が重なりました。床にくずれるように倒れかけた主人は私の膝のうえに横たわっていました。いつも主人をひとりじめしたいと思っている私への神様の憐れみでした。苦しい痛みの中で長男、長女とも最期のことばを交わしました。長男は「お父さんと約束したこと守るからね」と言い、主人は「ありがとう」と。娘は「お父さん、けんかしてごめんなさい」主人は「でも幸せだったよ」と答えました。息をひきとった主人の顔はさっきまでの苦しみがうそのように穏やかでした。微笑んでいるようにさえ見え、ほんとうに天国へ凱旋したことを確信させられました。
天に送ってから
☆喪失感
市役所、銀行、その他いろいろな名義変更の手続きがあり。その度に死亡診断書、除籍証明書が必要と言われ、その度に主人がこの世から消されてしまい、これまで存在していたことさえも消されてしまうような悲しみと恐怖に襲われ、ある時はあたり構わず声を出して泣いてしまいました。あのやさしい声を聴きたい。あれもこれも相談したいのに、いつもそばにいるはずの人がいないさびしさ、肌のぬくもりが恋しい、もう一度だきしめてほしい、そんな日々が続きました。
今でも主人がいないことが嘘のように思える時があります。
☆ありのままの私を受けとめてくださる神様
沖縄にいた時ホスピスでボランティアをさせていただき多くの方を見てきました、また、クリスチャンの方々のりっぱな証も見聞きしてきました。しかし、いざ自分がその立場になったら証をたてるどころか、神様へ怒りをぶつけ、のたうちまわり、いつも感情が不安定になりました。
まことに主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ彼が助けを叫び求めた時聴いてくださった(詩篇22:24)
彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しみご自身の使いが彼らを救った
(イザヤ63:9)
私が悲しみ、苦しみのあまりに神様をののしるようなことばを叫んでも神様は決して私を見捨てず憐れんでくださっていることが強く強く感じられました。
☆泣くことは癒されること
泣き虫の私は闘病中もいつも泣いていました。在宅ホスピスの看護師長さんもそんな私を受けとめてくださいました。亡くなってからも礼拝で賛美するたびに、みことばを聴くたびに、主人を思い出し涙が溢れてきました。そのような私を教会のみなさんは温かく見守ってくれ、共に涙を流してくださいました。いつまでも泣いていてはだめだよ、がんばりなさい、と励ましてくれる方もいますが、教会のみなさんはそのままの私を受けとめてくれました。
☆せいいっぱい生きたという満足感
主人は癌とわかった時、「僕はこれまで自分がやってきたことに悔いはないよ」と言いました。医師としてもまた音楽の賜物を用いても一生懸命仕えてきました。長く産婦人科医として働きながら、自分が本当にやりたいことは他にあると模索してホスピス医療にたどり着きました。病む人の心に寄り添う彼にぴったりの仕事でした。又、2005年には念願だったコンサートも開くことができました。ホスピスで出会った患者様の紹介を交えてサキソホンと賛美と証をすることができました。神様は主人が病気になることもすべてご存知で大盛況のコンサートにしてくださったことが今になってわかりました。仙台でもまだまだ用いられるべき人なのに・・・という思いもありますが、主人は本当に走るべき道を走り終えたといえるのかも知れません。
私は「玲子が後悔しないように看病したらいいよ」
という主人のことばに思い通りにさせてもらいました。面会を制限して2人の時間を過ごしたことも無礼な態度もありましたがかけがえのない時間でした。亡くなる2ヶ月前には弟たちの計らいで主人と沖縄に里帰りもでき、親戚に挨拶したり、教会で特別賛美もさせていただきました。母校である栃木の大学にも行きました。神様がその時々を導いてくださいました。また、告別式は最期の伝道集会にしようとふたりで話し合い、その時に使うDVDを編集しに一緒にでかけました、それが最期の外出でした。そして最期までお家で過ごせたこと、私の膝のうえで亡くなっていったこと、これらのことは悲しみの中にも満足を与えてくれました。
☆兄弟姉妹の支え
毎月月命日になると教会の姉妹たちがお家へ来てくれ、慰め、励ましてくれました。
主人がこの世から消されてしまうことは悲しいことで、みんなが思い出を語ってくれることはとても慰められることでした。
昨年の召天記念会はまるで教会の行事のひとつのように兄弟姉妹たちが準備をしてくれて外からのお客様をもてなしてくれました。また、記念誌まで作ってくださり、教会に1年半しかいなかった主人のことを多くの人が思い出として綴ってくれました。このことも大きな慰めでした。そして大きな証となりました。
☆娘の悲しみさびしさを受けとめてあげられなかったこと
私たちには3人の息子と末娘がいます。私は主人の祖母や両親の介護などでいつも娘に寂しい思いをさせてきました。主人が病気になったときも高校生の娘を気遣うゆとりがありませんでした。「お母さんは自分だけがかわいそうな人と思っている」「お父さんじゃなくて自分を一番に愛して欲しかった」「周りの人におかあさんを助けてあげてね、と言われるのがいやだった」と言われました。私は悲しみをいっぱい表に出すことが出来ましたが、この子は出す場所がなかったんじゃないかと思います。いつかこの子もいっぱい泣ける時がくることを願っています。
☆現在の私のあゆみ
主人が病気になってからいつも悲観的マイナス的に考えてしまう私でした。自分を責め、卑下したりしていた時
「僕が病気になってから玲子は自分を見失っているよ、玲子の良さを見つけて神様に用いていただきなさい。」
「玲子が笑っていると僕はうれしいよ」
主人が残したこの2つのことばは私の心の支えになっています。
今年から訪問看護師として働いていますが、25年のブランクがありながら看護師の仕事に就けたのも主人のことばに押し出されたからでした。在宅医療は主人も私も興味のあるところでした。しかし、25年も離れていた私にとっては知識や技術においても無理と思え、仕事を捜す時も老健施設が無難と思い面接に行きました。ところが、そこで訪問看護はどうですか?と声をかけられ働くことになりました。私のような経験不足の者が働かせていただけることは本当に神様の導きでした。同僚にクリスチャンの看護師がいて,その方からクリスチャンの同僚が与えられるよう祈っていたと聴き、なおさら神様の導きを感じ感謝しました。そして、この仕事を一番喜んでいるのは天国の主人だと思うと、主人と一緒に働いているような気がしてとてもうれしくなります。