生きるにしても死ぬにしても
衛さんは自分の病気を受けとめていた
「生きるにしても死ぬにしてもキリストの栄光のためだよ」
と語った
それは聖書のなかでパウロが言った言葉
生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ人への手紙2章20〜21)
衛さんは
「僕は自分のやってきたことに悔いはない。
でも神様が生かして下さるなら、自分が癌になった体験を通して
ホスピスの医師として
もっと患者さんに寄り添いたい
このことを患者さんに還元したい」
こう語った

12月15日退院
前の日病院前の公園を散歩した
退院して
やっぱりおうちがおちつくね、と
ご主人様が帰ってマナも安心
「生きるにしても死ぬにしてもキリストの栄光のためだよ」
と語った
それは聖書のなかでパウロが言った言葉
生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ人への手紙2章20〜21)
衛さんは
「僕は自分のやってきたことに悔いはない。
でも神様が生かして下さるなら、自分が癌になった体験を通して
ホスピスの医師として
もっと患者さんに寄り添いたい
このことを患者さんに還元したい」
こう語った
12月15日退院
前の日病院前の公園を散歩した
退院して
やっぱりおうちがおちつくね、と
この記事へのコメント
お名前で検索したら見つかりました。
信仰のある家庭にも病は襲ってくるのですね。それをすべて信仰で乗り越えられるのが理想ですが、人間としての弱さを抱えたままで共に主に信頼して歩める幸いを教えられました。
ローマ14:8、フィリピ1:20~21は、私の愛唱聖句でもあります。もう一つⅠコリント10:31、ローマ8:28の御言葉をいつも思い浮かべています。
また、主にある交わりが出来ることを願っています。 坂本
信仰のある家庭にも病は襲ってくるのですね。それをすべて信仰で乗り越えられるのが理想ですが、人間としての弱さを抱えたままで共に主に信頼して歩める幸いを教えられました。
ローマ14:8、フィリピ1:20~21は、私の愛唱聖句でもあります。もう一つⅠコリント10:31、ローマ8:28の御言葉をいつも思い浮かべています。
また、主にある交わりが出来ることを願っています。 坂本
Posted by 坂本紀夫 at 2008年02月16日 10:02
おひさ〜(笑顔)
このブログは今はまだ回帰の途中みたいですね。
現在の玲子お姉さまにたどり着くのはもう少し時間がかかるのかなぁ〜?
でも、それで良いんですよね!過ぎた時間、止まった時計、そしてまた、流れだしたキリストとの時間。フットプリントの詩みたいな時間を体験してるんですね〜。
また、ちょくちょくお邪魔しますよ!
このブログは今はまだ回帰の途中みたいですね。
現在の玲子お姉さまにたどり着くのはもう少し時間がかかるのかなぁ〜?
でも、それで良いんですよね!過ぎた時間、止まった時計、そしてまた、流れだしたキリストとの時間。フットプリントの詩みたいな時間を体験してるんですね〜。
また、ちょくちょくお邪魔しますよ!
Posted by ネイビー at 2008年02月16日 15:56
沖縄は、それなりに寒いのですが、桜の季節です。
先日は、ホスピス病棟の患者さん5人と、与儀公園に「お花見」に行ってきました。焼き芋を食べて、心も身体も温かくなりましたヨ。
病院の庭のキクザト桜は、今年は花は無しで、元気な若葉を出しています。来年はキッときれいな花を見せてくれるでしょう。
先日は、ホスピス病棟の患者さん5人と、与儀公園に「お花見」に行ってきました。焼き芋を食べて、心も身体も温かくなりましたヨ。
病院の庭のキクザト桜は、今年は花は無しで、元気な若葉を出しています。来年はキッときれいな花を見せてくれるでしょう。
Posted by Chinkoh at 2008年02月18日 21:34
私が衛君と同じ状況に立たされたとして、果たしてこのような言葉を発することが出来るでしょうか?
御心ならばもう一度臨床の現場に立って、自らがガン患者となった経験を生かしたいという発想は私には出来ません。
衛君の頭の中には絶えず自分の事よりも患者さんに対してどう関わっていくべきかという思いが優先していたのでしょう。
そして、パウロの言葉のように彼はその事を通して最終的に主イエス・キリストがあがめられるようにと考えていたのだと思います。
生かされている命である限り、遅かれ早かれ誰しもが死を迎えます。
その最期の時に、「生きることはキリスト、死ぬことも益」だと確信を持って言える衛君のような生き方をしたいと心からそう願います。
御心ならばもう一度臨床の現場に立って、自らがガン患者となった経験を生かしたいという発想は私には出来ません。
衛君の頭の中には絶えず自分の事よりも患者さんに対してどう関わっていくべきかという思いが優先していたのでしょう。
そして、パウロの言葉のように彼はその事を通して最終的に主イエス・キリストがあがめられるようにと考えていたのだと思います。
生かされている命である限り、遅かれ早かれ誰しもが死を迎えます。
その最期の時に、「生きることはキリスト、死ぬことも益」だと確信を持って言える衛君のような生き方をしたいと心からそう願います。
Posted by Dr.K at 2008年02月25日 18:43